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青野文昭展−続「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭AD2017~BC15000」−資料編−

2018.01.11 Thursday | ギャラリー情報

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青野文昭展−続「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭AD2017~BC15000」−資料編−

 本展は、東京・武蔵野市をフィールドとし、昨年、ほぼ1年間の時間をかけ制作された作品群―「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭AD2017~BC15000」(「コンサベーション_ピース ここからむこうへ partA 青野文昭展」2017年9月9日ー10月15日《武蔵野市立吉祥寺美術館》において展示発表)を、あらためて振り返りながらさらに掘り下げようとするものです。
 作品形成の過程で作成された多くのエスキースやドローイングや模型、および様々な周辺資料などを含む、過去と現在、東京と仙台、戦争と自分との連関を探った新たな展示となります。


見失われた影を追い求めて | 市原研太郎

 東日本大震災後の青野文昭の作品は、犠牲者への鎮魂の念、哀悼の意の表れだろうか?
 
 生者にとって〈死〉は、内在的に知覚不可能なものであり、つねに問いとしてあるのかもしれない。私は〈死〉に追い付かれることがあっても追い付くことはできない。私は〈死〉から問いかけられているのを知っていて、その答えを出すことを求められているのに、それを見出だせないでいる。問いの声音が高い壁の向こうにあり、聞き分けることができず隔靴掻痒の感がつきまとうのだ。この場合、壁とは生と死を隔てる底なしの深淵である。しかも、その問いが具体的に何であるか分からないことが致命的になる。

 したがって、生者は日常生活でその問いに耳を傾けないことを無意識の至上命令に生きる。しかし、その日常を一気に引き裂く事件や惨事が起きると、人間は〈死〉の徴を目の当たりにし向き合わざるを得なくなるのだ。青野にとって、それが2011年3月11日の大震災であった。

 それ以前から、青野は「なおす」(修復や復元)をテーマに制作してきた。しかし、彼は収拾物でもって何をなおそうとしてきたのだろうか?

 震災後は、災害で大量に放出された廃棄物や漂流物を素材に、破損したそれらの元の姿を取り戻そうとするかのように制作に勤しんできた。しかし、由来も出所も異なる複数の断片から原型を復元することは並大抵のことではないどころか、青野本人も修復して元通りにすることを諦めているかのように、作品が形を成していった。復元への求心力と、そこからの遠心力が同時に進行しているのだろうか。そのアンビヴァレントな意図は、果たしてどこにあるのか? 

 そのなかに取り返しがたく欠落している部分がある。それが、〈死〉つまり決定的に失われた生であることを見て取ることは難しくない。この欠落があるために、作品を観賞しているともどかしい気持ちが募ってくる。作品の核心に迫れない高い隔壁に阻まれ、所々に亀裂があってそこからわずかに光が漏れているのだが、断片的な情報ばかりで明確な像を結ぶことがない。焦燥感は、そのぼんやりとした像から問いかけられているのに答えられないことにより生まれる。しかし、その問いは、この像を貫いて強烈なリアリティを放つのである。だからこそ、それから目をそらしてはならないのだ。

 その問いの発信元が〈死〉だということは理解できる。にもかかわらず、問いの内容が分からないので答えようがない。これは、問いと答えのダブルバインドではないか。我々は、死者から負債を無理やり背負わされてしまったのかもしれない。 

 だが、その相手が死者ではなく、不在の人間だったらどうだろう?
 2017年9~10月に吉祥寺美術館で開催された個展で、青野は、大惨事以降初めて震災関連の作品から離れて、素材を吉祥寺周辺で調達し制作に挑んだ。それらの収拾物の持ち主が不在の人間とはいえ、すでに亡くなっている可能性がある。その蓋然性だけでも、彼らが使っていた日用品や家具や本の欠片をつぶさに見る人間にとっては重石が軽くなる。しかし、生死にかかわりなく観賞者に迫ってくるのは、やはり不在の人間がどんな問いを発しているかである。それがはっきりすれば答えることもできるのだが……。

 というより、問いの内容が語ってくれるはずの人間のアイデンティティが不明なままなのだ。彼らの曖昧なシルエットが、収拾物の家具や自転車の間から浮かび上がってくる。その姿は図式的な人間のパターンのように見えるが、決して人間を抽象化した結果ではない。現代の都市社会においては、そこに住まう人間の輪郭が文字通りぼやけてしまっているのだ。それに反比例して、彼らの使用した事物のほうがくっきりと見えるというアイロニーが、問いを見極めようとする観賞者を朝笑う。それでもアーティストに誘われながら、観賞者はシルエットの正体に近づく。その手掛かりを提供するインスタレーションの周囲を何度も巡り、その内部にまで分け入るのである。

 この道行きは、その先で事物の持ち主に遭遇できず、影を察知するだけだとしても無駄ではない。なぜなら、観賞者がアーティストに手を引かれて見失われた人間を探しに出ること自体、実は自分を見つけ出すことに等しいからだ。とはいえ、よくある自分探しの暢気な感傷旅行ではない。自分と同じ地平に生きた、あるいは生きている、彼らの記憶の染み込んだ事物とともに存在する他者が、観賞者との出会いによってアイデンティティ(それは、私は何者かであって何者になるべきかではない)を確認する日を待ちわびているからである。その反射光で、ようやく観賞者自身のアイデンティティが明らかになるとすれば、この探索は余計に重要である。

 自動車や自転車や家具や衣類や玩具などから醸される日常の雰囲気から、未だぼんやりしたシルエットの人間を、〈死〉=生の不在から救い出す旅はまだ長いと、青野のこの作品は物語っているようである。


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〇会期:2018年1月18日(木曜)-1月28日(日曜)月曜定休
11:00-20:00、日曜-18:00

〇会場:Gallery TURNAROUND
仙台市青葉区大手町6-22久光ビル1階
 地下鉄東西線「大町西公園」駅より徒歩5分

〇トークイベント:2018年1月20日(土曜)
 ▶第一部|13:00-14:30 
 「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭017~BC15000」
  解説・考察
  出演:青野文昭
 ▶第二部|14:40-16:30 
 「2016-17、この一年を振り返って 〜対談」
  出演:青野文昭、関本欣哉(TURNAROUND)
 
 トーク入場料は通して500円です。予約優先。
 ご予約は会場までmailまで
 info*turn-around.jp(*を@に)


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−続「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭AD2017~BC15000」−資料編− 2017.1 Gallery TURNAROUND

青野文昭 Aono Fumiaki

1968 宮城県仙台市生まれ  
2013 ヴァーモントスタジオセンターフェローシップ・滞在制作
  (Vermont Studio Center Fellowships for Artists and Writers アメリカ・VSC)
2015 タカシマヤ美術賞受賞
- 近年の主な展覧会 -
2000 『アートみやぎ』 宮城県美術館(宮城)
2001 『VOCA展・現代美術の展望−新しい平面の作家たち』上野の森美術館
2007 『N.E.blood21 Vol.28 青野文昭』 リアスアーク美術館(宮城)
2008 『いのちの法則・生をひもとくための三つの書』 足利市立美術館(栃木)
2013 『あいちトリエンナーレ2013―揺れる大地―』 (愛知県名古屋市ほか)
2014 個展・ アラリオギャラリー (韓国・ソウル)、
   BY DESTINYアラリオ美術館Dongmun Motel2階フロアーにて個展 (韓国・済州島)
2015 個展 『パランプセスト―記憶の重ね書き』 gallery αM (東京)
   『コレクション展2 歴史、再生、そして未来』 金沢21世紀美術館
2016 『いま、被災地から ―岩手・宮城・福島と震災復興−』展 東京藝術大学美術館(東京)
   『Royal Academy of Arts’ Summer Exhibition.2016・招待出展』 (ロンドン)
2017 『コンサベーション_ピース ここからむこうへ partA 青野文昭展』
    武蔵野市立吉祥寺美術館(東京)
    『コンニチハ技術トシテノ美術』 せんだいメディアテーク(宮城)
2011~2013、2015~2016、個展/Gallery TURNAROUND

パブリックコレクション|宮城県美術館、愛知県美術館、金沢21世紀美術館など
青野文昭ウェブサイト|http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/




企画|ターンアラウンド
協力|コトバ事務所